センター改組計画の史学的観点

 人文科学研究所附属漢字情報研究センターの前身である東洋学文献センターは、日本学術会議の勧告に基づくドキュメンテーション・センター構想の一環として、1965年4月に発足した。以来、人文科学研究所の前身の一つである東方文化学院京都研究所がおこなってきた資料収集および学術情報公開の事業を継承発展させる形で、漢字文献の収集や目録の編纂に努めるとともに、東洋学へのコンピュータ利用にもいち早く取り組み、1980年代には東洋学関連の論文目録データベース(毎年約2万件)を年度ごとに作成、公開して、現在に至っている。また漢字文献のデジタル化を本格的に推進するために、2000年4月、情報学の研究者を専任スタッフに加えて漢字情報研究センターに改組し、デジタル・テキストやデジタル・カタログの作成において内外から高い評価を受けている。

 所蔵資料をたんにデジタル化するばかりではなく、たとえば石刻拓本資料の場合、先行して作成された拓本全体のデジタル画像に基づいて、様々な書体で刻まれた元の文字と今日一般的に使われる文字とを画面上で対応させる「拓本文字データベース」を構築することにより、時代ごとの書体の変遷や流行を追跡できるようにした。王国維の「史籀篇疏証」や「戦国時秦用籀文六国用古文説」における指摘ではないが、旧字と新字と言われると、旧字が先にあり新字が後に続くという単線的発展史をついつい思い浮かべてしまう。しかし「拓本文字データベース」で「來」もしくは「来」を検索すると、文字成立の専門的考証はともかくとして、両者がいかに日常的に混在、共存してきたかという事実を突きつけられ、改めて驚かざるを得ない。

 また他の大学図書館や公共図書館との連携事業である全国漢籍データベースの場合も、たんにそれぞれの漢籍目録をデータベース化するのみならず、テキストの画像を附加することで、版本研究における利便性を向上させることに努め、さらに本センターが所蔵する漢籍については、テキストの構成や出版に関する所内研究会の調査結果をそのつど公開することで、データベースの利用価値を高めている。さらに2009年3月に開かれる全国漢籍データベース協議会総会では、この研究会の成果を直接公開すべく、「普通の本でも十分におもしろい」と銘打って、目録情報からは見えてこない「本を手に取る楽しみ」を、実物を目の前に置いて解説する予定である。この試みは今後も続けてゆきたいと考えている。

 デジタル・テキストやデジタル・カタログの作成におけるこうした実績を踏まえて、本センターではフィールド研究史料(たとえば発掘調査における多数の写真資料)をデジタル化することで、さらに研究者にとって有用な学術情報を提供していきたいと考えており、東洋学と情報学の融合をより一層推進するという意味で東アジア人文情報学という名称を選んだ。すでに21世紀COEプログラム「東アジア世界の人文情報学研究教育拠点──漢字文化の全き継承と発展のために」においても、プログラム終了後、漢字情報研究センターを東アジア人文情報学研究センターに改組して、その研究成果を継承、発展させることを打ち出している。

 人文科学研究所の共同研究は、古典文献の精密な読解と詳細なフィールド調査を二つの大きな柱としており、それは東方文化学院京都研究所以来、東アジア研究においても変わりない。東洋学文献センターと漢字情報研究センターでは、おもに前者、すなわち古典文献の精密な読解を推進するために文献収集やデータベース作成に取り組んできたが、学術情報の提供という点から言えば、今後は必然的に後者のフィールド調査史料をデジタル化して研究の発展に資することが求められる。

 たとえば1938年に始まった雲岡石窟の調査は、1945年3月の東京大空襲により製版中の報告書原稿が焼失するという打撃を蒙りながら、1951年に『雲岡石窟』と題されてその第1冊が刊行され、それを時の首相吉田茂がサンフランシスコにおける講和条約締結の際に持参したことはよく知られている。最終的に全16巻32冊に達した『雲岡石窟』は、人文科学研究所の数ある成果報告書の中でも抜群の存在感を誇っている。だが言うまでもなく、この巨大な報告書を生み出した原資料として厖大な調査記録や写真が残されており、それらは今でも研究所の一隅に保管されている。

 調査開始から70年以上、報告書刊行から半世紀以上経過した今日、デジタル化技術の進展に伴い、原資料が再び脚光を浴びることになった。内容や撮影場所を特定して公開した写真資料を、世界中の人々がインターネット上で直接利用できるようになれば、雲岡石窟の歴史的、文化的あるいは宗教的意義を深く認識できるようになるし、専門家には『雲岡石窟』の基礎となる貴重な資料として歓迎されるであろう。

 本センターが様々な学術情報を提供すべく、柔軟な発想と幅広い知識を求めて多くの方々に協力をお願いし、しばしば「身の丈を越えた」と揶揄されるほどに活動の領域を広げようとするのは、東方文化学院京都研究所の設立に当たって、その学風が大きな影響を与えた王国維の「史学的観点」を変わることなく重視したいと願うからである。彼は言う。

 「学問に新旧はないという根拠は何か。真正を求める科学的観点よりすれば、聖賢の言行であっても一概に信用しない。聖賢は真偽を区別し是非を明らかにしたのであり、真偽や是非は聖賢が定めたのではないからだ。史学的観点よりすれば、今日から見ると真正でない学説や制度風俗にも研究する価値がある。それらが成立し、当時の社会に受け入れられた理由が必ずあるからだ。物理学の歴史では謬説が、哲学の歴史では空想が、制度風俗の歴史では無用の物がその半ばを占めているが、史学家は捨てない。これが二つの学問の相違である。しかし科学を治める者は必ず史学上の材料に待つものがあり、史学を治める者の方でも科学上の知識を欠くことはできない。今の君子は、何でも蔑古でなければ、何でも尚古である。蔑古派は科学的見地のみ、尚古派は史学的見地のみ、そして折衷派も取捨の然る所以を理解できていない。これが新旧の説の存在する理由である」(「国学叢刊序」)。

 手前味噌であるが、筆者は本センターが1972年からおこなっている漢籍担当職員講習会の冒頭の講義において、最近次のように述べることにしている。

 「皆さんがこれから学ぶことは、京大人文研が、1929年に創設された東方文化学院京都研究所このかた培ってきた漢籍に関する知識です。私どもは自信を持ってそれをお伝えしたいと考えていますが、漢籍に関する知識は決して当研究所の専売特許ではありません。国内を見渡しただけでも異なる考え方はありますし、中国を含めればなおさらです。皆さん、どうか「ひとつしかない」と思いこまないようにして下さい、「いくつもある」と理解して下さい。そしてこれが一番大切なことですが、異なる考え方が出て来た時に、「どちらが正しいか」という発想をなさらないようにして下さい。結果の是非ではなく、「どうしてそのようになるのか」という、それぞれの思考のプロセスについて考え、その拠り所を理解するようにして下さい」。

 これもまた、ささやかながら「史学的観点」を踏まえた発言だと信じたい。(センター教授)