中國造園史研究の現状と課題                                 田中 淡 1. はじめに  中國造園史の研究は,考古學・美術史・建築史などの隣接學問領域と同樣に,ヨ―ロッパや日本の學者によって先鞭がつけられた。しかも,周知のように,かつて中華趣味庭園(Jardin anglo-chinois)という明瞭な影響をもたらしたイエズス會士の見聞録を擁するヨーロッパでは,近代になると,中國建築史の大著を數おおく著したエルンスト・ベルシュマンに『中國の建築と庭園』(1926)という圖録があるのが目立つ程度であるのにたいして,日本では岡大路が中國造園史に特有の文獻史料群にいちはやく注目して,その大要を『支那庭園論』0016にまとめたことは特筆に値するものであり,かれはべつに『支那宮苑園林史攷』0017と題する最初の本格的な中國庭園史概説をも著している。造園史の史料の面でも,中國造園論の代表的傑作,明・計成『園冶』は,本國では早くに本が失われてしまい,内閣文庫藏明版が最良の版本としてわが國に傳えられていることは,つとに知られるとおりである。同書は戰後,渡邊書店から橋川時雄の解説を付して影印された。このほかにも,田治六郎は,「太湖石」0638,「洛陽名園記と金陵諸園記とから見た宋明兩時代の庭園」0559,「李漁の庭園論」0519,「謝肇淛の庭園論」0520などの論文によって,主要な文獻史料についての基礎的檢討をおこなっている。また杉村勇造は,解放前の北京での生活經驗を活かしつつ,戰後になって『中國の庭』0048を著しており,同書は著者特有の風格をそなえたもので,それゆえに造園學プロパーからみれば特異に映るかともおもえるけれども,やはり中國庭園史の概説のひとつに數えられていいであろう。  こうしてみると,日本の研究者は中國造園史研究に貢獻するところがすくなくなかったとみとめられていいとおもわれるのだが,その後はかえってこの分野の研究はほとんど停滯したまま今日にいたっているといわざるを得ない。もちろん,ながいあいだ日中兩國間の學術交流が事實上不可能な状況がつづいたことを拔きにして,こうした現状を語ることはできないかも知れない。しかし,ともかく文化大革命以降は兩國間の交往が頻繁におこなわれるようになり,わたしたちが中國の庭園を參觀することもほとんど自由になってきている。同時に,中國における學界活動も年々活撥化の傾向をみせ,十數年來,延滯していた分の放出も加わって,この數年は出版もとみに活況を呈している。わたし自身は必ずしも造園學會の現況を熟悉しているわけではないけれども,中國の關係の學界とは若干關わりをもっていることから,この機會を借りて中國造園史研究の現状と問題について大略を紹介してみたい。なお,中國庭園は,皇帝に直屬の大規模な苑囿(北京頤和園・圓明園・承徳避暑山莊など)と江南地方に集中する官僚・富豪らの私邸庭園(蘇州拙政園・留園・獅子林・滄浪亭など)の2つの類型に大別されるが,以下の記述では後者のほうに重點を置くことにし,別掲の文獻目録には雙方の類型を合わせて收録することにした。 2. 概觀―造園史概説・圖録 外國人學者による研究史の端緒については,冒頭にふれたばかりであるが,じつは解放前,すでに中國人學者による誇るべき業績が完成していたのであり,前項の記述は嚴密にいうと修正を必要とする。すなわち,童寯(1900~1983,前南京工學院[現東南大學]建築研究所長)の『江南園林志』0078がそれであり,この本は刊行を目前にした1937年,蘆溝橋事變が勃發したために,出版を目前にして實現が阻まれ,解放後の1963年になってから,汚損した原稿の收集などの苦心の末にようやく公刊されたという因縁をもつものである。同書は最近,南京隨園に關する新稿1篇を増補し,劉敍傑の跋を付して第2版が出版された。童教授はヨーロッパ造園史にも通曉しておられ,日本,ギリシア,ローマなどの世界の庭園を簡明に解説した『造園史綱』0080や,八國連合軍により破壞された圓明園の洋風建築を論じた「北京長春園西洋建築」0299などの著作もある。わたしは1981年3月から1年間,南京工學院建築研究所で客員研究員として研究の機會をあたえられたが,そのとき童老は着任早々のわたしに『作庭記』中文譯の仕事を命じられた。それは自分自身にとってかなりきつい任務であり,歸國までにどうにか初稿は提出したものの,わたしの研究の淺さと遲筆に起因する問題,その他種々の事情により,いまだ定稿を閲讀される前に間もなく他界されたのは痛恨の極みである。童老は毎日,不自由な脚を壓して早朝から圖書室に來られ,海外の雜誌を通讀されていた姿がいまでもつよい印象にのこっているが,『作庭記』にしろ,諸外國文獻にしろ,その博覽強記ぶりはこの學界でも餘人の追隨を許さぬものがあり,今後このような博識多才の學者はとうてい望まれないのではないか,といってもいいすぎとはおもえない。 『江南園林志』に次ぐ中國の造園史研究の最初の本格的大著というべきものは,劉敦楨(1897~1968,前南京工學院建築系主任教授)の主編による『蘇州古典園林』0376A(拙譯『中國の名庭―蘇州古典園林』0376B)である。この本は前身の第1次報告「蘇州的園林」0375を端緒とし,その後の資料を増補した初稿が1960年に完成していたが,文化大革命の動亂のために公刊にいたらず,著者の死後1980年に出版された。この本は,劉敦楨教授主宰の南京工學院建築系スタッフの共同による實測調査と沿革調査の兩面からの研究の集大成であり,蘇州の現存庭園遺構14件,拙政園・留園・獅子林・滄浪亭・網師園・怡園・耦園・藝圃・環秀山莊・擁翠山莊・鶴園・暢園・壷園・殘粒園・王洗馬巷7號某宅書房庭院について,豐富な實測圖と鳥瞰圖・詳細圖および寫眞を掲載した豪華本であり,序論の配置・治水・築山・建築・花木の各章ごとに古代の簡史を含む概説を記し,次に各遺構ごとに沿革と個別解説を記したものである。中國の庭園遺構は周知のように蘇州・南京・揚州・無錫・常熱・上海など江南地方に集中しているが,とくに蘇州には名園がおおく,同書は第1次報告で略測圖をのせたもっとおおくの小園を捨象しているものの,上記14遺構は現在みられる蘇州の代表的庭園のすべてを網羅しており(このうち藝圃はすでに損壞),實測圖は高度な綿密さをそなえたもので,この本だけでも蘇州のみならず江南庭園の基礎的風格と構成を知るにはじゅうぶんであろう。なお,著者の劉敦楨教授は,解放前の中國營造學社いらい中國建築史の文獻的研究の基礎を築いた斯學の泰斗であり,この本は解放後になってから教授が開拓した新天地を象徴する金字塔に位置づけられるもので,文獻研究と遺構調査の兩面において,信頼度はきわめて高い。  童・劉兩教授に次ぐ造園史の老大家としては,まず陳植(1898~1993,南京林産工業學院教授)をあげなければならない。小稿で紹介してゆく中國の造園史研究は,そのほとんどが建築學系統に屬する人びとによるものであるけれども,それは,中國の大學のばあい,日本とは異なり,造園學の課程はほとんど建築工程系(日本の建築學科に相當する)のなかにデザイン・設計の1コースとして設けられていることに起因している。そのなかにあって,陳植教授は,數すくない農學系の造園學を履修された專門家であって,解放前に東京大學農學部造園學研究室に留學し,本多靜六博士に師事された經歴をもつ稀有の人材である。ふたたび私感を交えて恐縮であるが,1982年3月,わたしが南京工學院での1年間の滯在を終えて離國しようとする前日に,陳教授は宿舍を訪れて下さり,この間しばし歡談する機會を得ることができた。陳植教授は,當然のことながら,田村剛・上原敬二兩先生のお仕事にはじゅうぶん精通されていたが,そうした舊世代とは面識もあり,業績も熟知されている反面,森蘊・田中正大・岡崎文彬諸先生の世代になると,ごくわずかの著作をとおして,間接的に知っておられるにすぎなかった。これはしかし,なにも庭園史に限らず,つい最近まで中國のほとんどすべての學界に共通する情報の偏重に由來することで,たまたま入手することのできた若干の學術情報に頼らざるを得なかったためにすぎない。わたし自身が經驗した範圍でも,建築學科の名門といわれる南京工學院や清華大學,同濟大學ですら,戰後の日本の學界における研究成果は,ごくわずかの情報しか傳わっていなかった(ただ,80年代以降は,日本の新刊書を積極的に購入しようとしているようである)。 陳植教授の造園史學は,早くも解放前にわが『造園研究』に「中國造園家考」0522と題する中國語の論文として出現しているのをはじめ,「清初李笠翁氏之造園學説」0498においてその最初の到達點がみえるように,造園學プロパーの基礎知識をふまえつつ,それを史學の領域にまで廣範に高めようとする,勇壯なる氣風に滿ちたものであったといっていい。だからこそ,氏は,とりわけ造園の分野で功績の顯著な工匠の事蹟や,文人が書き止どめた名園記のような文獻史料に着眼したのであろう。その過程で蓄積されてきた知識は厖大なものがあるが,にもかかわらず,その成果は不幸にも陽の目をみる機會を逸していた。文化大革命ののち,氏の永年にわたる業績がようやく所を得ることになり,公刊が實現するところとなったのは,遲きに失した感もなくはないけれども,まずは大慶のいたりというべきであろうか。陳植教授の3部作(著者自身がそういわれたわけではなく,あくまでも外野の虚言にすぎないが)は,『園冶注釋』0499,『長物志校釋』0501,『中國歴代名園記選注』0565であろう。これらの書物が,いまから當分のあいだ中國造園史料の基礎的文獻として不動の位置を占めることは,まずまちがいない。『園冶注釋』は,さきにもふれた明・計成の造園論『園冶』の全文について,現代中國語譯と語句の出典等の注釋を付した勞作である。同書はよく知られているにもかかわらず,とくに冒頭の「興造論」,「園説」という總論にあたる部分が難解であるために,後半の造園手法の具體的な記述の一部をつごうよく引用する傾向があったのにたいして,初めて全面的な譯注を施したものであって,この本の出現により原書の理解度は飛躍的に向上したと信じる。ただ,『園冶』は,明末の文人に特有のけっして讀みやすくはない文體で書かれているために,陳植氏といえども,誤讀を免れなかった部分はある。譯注の出版後,次代の斯界を擔う人材と目される曹汛が「《園冶注釋》疑義擧折」 0489を著し,その大半を繆正しており,わたし自身も曹氏の見解に與するところがおおいが,ともかく同書を引用するさいには,最低限,陳氏の注釋を參看する必要があろう。曹氏との見解の相違は,いわばかなり高水準の議論であると考えていただいていい。上原敬二『園冶』0480が句讀をいちじるしく誤り,橋川時雄も岡大路も杉村勇造もみな避けて省いた總論部分を,はじめて一般共通の言語の土俵に乘せたというだけでも,わたしは,陳植注釋の價値は多大なものがあるといえるとおもう。陳植『長物志校釋』は,明末の文震亨『長物志』の注釋書であるが,『園冶注釋』に比べると,若干,緻密さを缺く。というのは,『長物志』じたいが造園の專著ではなく,文房四寶,書畫骨董,その他,文人の日常生活にかかわるきわめて廣範な事物を對象にして書かれたものであるから,注釋者の本意とする領域を超えた部分については,必ずしも適正を得ていないとしてもやむをえないという意味である。卷1・室廬,卷10・位置のように庭園・建築と深くかかわる部分についての注,とくに植物の同定についての注釋は信頼性に富んでおり,卷2・花木,卷6・几榻,卷11・蔬果のような部分についても,農學者たる著者の眞髓が發揮されている。惜しむらくは『園冶注釋』のような現代中國語譯が付されておらず,譯注も前著よりは疏漏の感が否めないこと,さらにはテキスト自身の排列にも恣意的な操作が認められることであるが,文人趣味の現實に滅亡したいま,氏を措いてこの本の校注をなしうる人はとうてい十指に滿たず,だからこそ,この勞作をあえて評價したい。3部作と假稱したもう一册の本は陳植・張公弛選注『中國歴代名園記選注』で,これは陳氏ひとりの仕事ではないから,ここではあまり詳しく言及することを控える。ただ,造園史領域の研究者にとっては,白居易「太湖石記」,李徳裕「平泉山居草木記」などからはじまって,宋・元・明・清の各代の主要な庭園歴訪記を抄録した本というのは他に類例がなく,一般には檢索しにくい史料も含まれているから,おおいに利用價値があることだけを記しておく。  劉敦楨・童寯・陳植の3氏につづく造園史研究者として,陳從周(1915~,同濟大學建築工程系教授)を紹介しなければならない。陳從周教授は,建築・庭園兩分野をつうじてきわめて稀にみる文學專攻の出身で,解放前に浙江杭州の之江大學文學院を卒業され,1949年には『徐志摩年譜』を編まれたという經歴の持ち主である。そのご劉敦楨先生と親交され,建築史・庭園史の分野にすすまれた。蘇州の庭園は内外につとに知られているが,前掲の劉敦楨・南京工學院グループの大著をべつにすれば,獨自に專著を著したのは,陳從周氏ひとりである。文革前に公刊された『蘇州園林』0364A(横山正・路秉傑譯『蘇州園林』0364B)がそれである。陳從周氏は,早くから江南庭園についての隨筆や短文,調査報告の類をものされ,その獨特な文體と作風から形成される境地があまり一般的に理解しやすいものではなかったためであろうか,ながいあいだけっして優遇されることはなかった。しかし,文革以後,とくにここ數年來の氏の旺盛な執筆活動には眼を見張るものがあり,しかもその意とする領域は,文學,繪畫,書道,音樂という多岐にわたっている。陳教授が書かれた短文・隨筆は,最近,『園林談叢』0066,『説園』0068A,『書帶集』0067の3著作に收録され,公刊された。最後のものは,庭園に限ることなく,廣い領域にかんする短文・隨筆を集成したものであるが,前二著はいずれも庭園史の專著であり,『園林談叢』は氏の永年にわたる特定テーマの論考を集成したものであり,『説園』は中國庭園の特質を總括的に論じた連作を一册にまとめたものである。前者は,實在の遺構をみるさいにも參考とすべき文獻である。陳從周氏には,上記4著作に加えて,最近出版された『揚州園林』0387があり,これはおおくの圖版とともに,かって『社會科學戰線』誌上に掲載された揚州庭園の簡明な概説を付したもので,蘇州とは異なって富商に特有の明瞭な特徴をもつ揚州の私邸庭園についての,現在唯一のまとまった調査報告である。  陳植・陳從周兩教授に次ぐ,現役の世代としては,曹汛(遼寧省博物館),劉策(寧夏回族自治區農機機械局),楊鴻勛(中國社會科學院考古研究所),周維權(清華大學建築學院),何重義(同),曾昭備(同),潘谷西(東南大學建築系),張家驥(蘇州城建環保學院),劉敍傑(東南大學建築研究所)らがいる。劉策『中國古代苑囿』0109は,苑囿とは江南地方の私邸庭園とはちがって皇帝の直轄に屬し,大規模な自然景觀を包括する巨大な類型を指すもので,同書は,苑囿の歴史の概説と,北京紫禁城三海(北・中・南海),北京西郊の頤和園,圓明園など三山五園,承徳の避暑山莊などの實例についての簡明な解説とからなっており,この類型のみを扱った專著は他に類書がないから,とりあえず利用價値があろう。劉策氏にはほかに,その内容をもっと一般向けに書いた『中國古典名園』0110という文庫本のような著作もある。曹汛氏,およびその他の人びとの業績については,以下の各論のところで言及することになるであろう。  概説書の類で,いまひとつ,ぜひ特筆しておかなければならないのは,中國科學院自然科學史研究所主編『中國古代建築技術史』0061の第13章「園林建築技術」である。從來,中國造園史として單獨の概説書は公開出版されておらず,建築史の教材の一部分として,たとえば建築工程部建築科學研究院『中國古代建築簡史』0030A(拙譯編『中國建築の歴史』0030B)の第6章(明清時代)第5節(庭園(1)私邸庭園)が前掲『蘇州古典園林』の原稿の要約として書かれていたために,それなりに有用であったという例はあるものの,その後に編著された『中國古代建築史』0116,『中國建築史』0062の明清時代・庭園の章節はそれほど有益な情報を含むものではなかった。それにたいして,『中國古代建築技術史』の庭園の章は,たかが1册の建築史のなかのわずか1章とおもえるかもしれないが,それはあたらない。この本じたいが建築技術史を年代的にではなく類型的に章立てをし,カラー圖版をほとんどのページに掲載した,文字通りの巨册であって,この1章だけでも,じゅうぶんに最初の中國造園史概説であるといってもいいのではないかと,わたしはおもう(同書については,東方書店刊『東方』69號所載の拙い書評を參照されたい)。加えてこの本は,いま列擧したような中國建築史概説書・教科書のなかの庭園の項目がいずれも建築史領域から庭園史を主要テーマとするようになった研究者たちによって執筆されたのとはちがって,造園の現場に攜わる人びとが執筆しているのが,最大の特色である。すなわち,第13章『園林建築技術』の内譯は,概説:王菊淵(北京市園林局),第1節・園林理水:柘永基(北京林學院),第2節・掇山〔築山〕技術:孟兆禎(同上),第3節・園林建築:金承藻(同上)からなっており,たとえば石峰や築山,排水工程などの具體的な構法の記述は,これまでは實質上,得られなかったものであるから,その歴史的記述の部分についての不滿はおおいにのこるとしても,やはり中國造園史に關心をもつ人びと,そして實際に造園設計に攜わる人びとにとっても,有益な情報を含んでいるといっていい。  上記のほか,概説,というより寫眞集・圖集というべきものとしては,喬匀主編『中國園林藝術』0027A,Chung Wah-nan, The Art of Chinese Gardens 0127,安懷起『中國園林藝術』0002,彭一剛『中國園林分析』0089などがある。また,別掲文獻目録にあげたように,中國庭園の空間計畫,庭園景物などの特徴を論じた論文はかなりおおくの數にのぼるけれども,その大半は建築設計プランナーの眼からみた空間論・意匠論であって,その内容の精粗と水準の高低はまさしくさまざまであるから,その點を留意しながら讀む必要があろう。  外國人による著作としては,すでにあげた岡大路・杉村勇造の著作のほかに,近年ではMaggie Keswick, The Chinese Garden 0137が近世の繪畫資料などを豐富にとり入れた插圖の美しい本であり,參照に値する。また,岡崎文彬『造園の歴史』(同朋舍出版,1982),村田治郎・田中淡編『中國の古建築』0095などにも中國庭園に關する記述や資料が含まれている。大室幹雄の『園林都市』0015,『西湖案内―中國庭園史序説』0407,その他の一連の論著は,中國思想史の視點から著わされたもので,いろいろな面で相當に個性的な著作といえるが,そのなかにも中國庭園の特質についての鋭い指摘がみられるので,一讀すべき文獻に數えていいだろう。 3.古代・中世造園史の研究  中國の造園の歴史は,文獻的に確實な事跡としては,秦始皇帝が咸陽において,渭水から水を引いて池を穿ち,蓬萊・瀛州など東海神山を象った築山の中島を築いた苑囿が最古の例證であり,これから數えても優に2,000年を超える歴史を有している。しかし,その悠久の歴史の,とくに古代・中世を扱った研究はきわめて乏しい。古代・中世を含めた造園史の概觀を試みたものとしては,前掲の劉策の苑囿に關するもののほかに,潘谷西「我國古代園林發展概況」0085があるが,これはほんらい教材の『中國建築史』の一部をなすべく書かれたものであり,内容は比較的簡單である。羅哲文「中國造園簡史提綱(1-3)」0106も同趣の概説である。漢代の苑囿については,山田勝芳「後漢の苑囿について」0097が社會經濟史的側面からではあるが,論じている。胡謙盈「漢昆明池及其有關遺存蹈査記」0434は,漢の昆明池の臺觀などについて,現代地形,基檀殘缺の情況と文獻史料から考察した例外的なタイプの論考である。  魏・晉・南北朝時代の私邸庭園をあつかった論文としては,解放前に書かれた呉世昌「魏晉風流與私家園林」0032がもっともまとまっていて,今日でも必讀の文獻に數えられる。近年では周維權「魏晉南北朝園林概述」0041があるが,その内容はおおくを呉氏の論考に負うたものである。わが國では,中國思想史の立場から論じた,村上嘉實「六朝の庭園」0091,同「中國の庭園」0093があり,同氏の隋唐時代の論考とともに,一讀に値しよう。  隋・唐・宋・元時代の造園史研究は,苑囿と私邸庭園とを問わず,いよいよ寂しい限りである。まず,村上嘉實「隋代の庭園」0092,同「唐代貴族の庭園」0090をあげるべきであろう。まとまったものでは,この2編のほか,最近發表されたばかりの王鐸「唐宋洛陽私家園林的風格」0428があり,これは文獻史料を用いた研究であるが,たんに歴史學的觀點からするのではなく,庭園の方角,石峰,石の築山,借景などの具體的要素に論究しているから,有用である。蕭默「莫高窟壁畫にみえる寺院建築」0046は,敦煌莫高窟壁畫に描かれた變相圖の,いわゆる淨土庭園の原型とされている池苑をもつ建築配置の例を數おおく收集し,分析を加えたもので,この主題を扱ったものとしては現在もっとも信頼性に富む。曹爾琴「唐長安的寺觀及有關文化」0438,梁瞿白「試述佛教寺院藝術」0117などにも佛寺の庭園についての若干の言及がある。苑囿の部類では,唐の長安城の東南隅にあった曲江・芙蓉池について,福山敏男「唐長安城の東南部―呂大防圖碑の復原」0443が文獻的に詳論しており,その結果は發掘調査によって裏付けられたが(陝西省文物管理委員會「唐長安城地基初歩探測」考古學報1958-3),近年ふたたび武伯倫「唐長安東南隅(下)」0442がこの問題を論じている。唐の玄宗と楊貴妃の故事でつとに著名な驪山の華清池は,數年前から發掘調査がおこなわれて,當初の浴池や苑池,水路などが檢出されたが,1987年5月に實見した際にはまだ整備が完了しておらず,發掘報告もまだ發表されていない。  このほか,むしろ造園の特定の要素をあつかった論考ではあるが,曹汛「略論我國古代園林疊山藝術的發展演變」0637は,古代・中世にさかのぼって論じた數すくない一篇として一讀に値しよう。楊鴻勛「中國古典園林藝術結構原理」0098も,比較的簡單ながら古代・中世への論及がみられる。  北宋の徽宗が道教方士の風水説に從って首都汴梁(開封)の東北に築いた艮獄は,そのための太湖石を運んだ花石綱とともに,中國造園史における築山の規模としてはピークであったが,これについても概説の類や田治六郎「太湖石」を除くと,造園史領域のまとまった論考はみられない。宋・元時代から明・清時代になると,北宋・汴梁の「金明池奪標圖」をはじめ,繪畫・畫像史料もすこしずつ現われはじめる。「金明池奪標圖」の建築についてはすでに羅哲文「一幅宋代宮苑建築寫實畫」0425があるが,こうした資料を用いた造園史研究も今後の課題といえよう。  一方,唐代以降になると,白居易「太湖石記」,李徳裕「平泉山居草木記」などの文人の著作もあり,佛寺については『寺塔記』,その他の史料が傳わっており,また宋代以降は,陳植・張公弛・前掲書に收録されているように,造園題記や名園歴訪記の類もすくなくない。文獻的研究の餘地はおおくのこされており,今後の課題といわざるをえない。  宋代以前については,將來はともかくとして,庭園遺構の發掘はただちには期待できない情況であり(目下のところ華清池は孤例),その意味でも文獻的研究が急務である。わたし自身もすでにのべたことがあるが,隋唐時代以前の庭園は自然風景式庭園を基調とした,むしろ日本の平安時代庭園のほうにちかい要素さえみとめられるのであって,もっぱら清代再建の奇石・山洞のおおい晩期遺構をもって,古代・中世の庭園を推測するのは,おおきな誤りを招くものだと考えている(拙稿「中國庭園の原型」0057)。とくに南北朝―隋唐時期については,日本の造園史研究者による新たな研究が今後すすめられることを期待してやまない。 4. 明清時代の庭園遺構と造園論  中國造園史の研究對象は,別掲文獻目録をみれば明らかなように,その大半が現存する明清時代の遺構及び造園論著作に集中している。現存遺構で年代的にもっとも古いものは,蘇州の藝圃であるとみられるが,この小園は文化大革命中に破壞されたというので,實年代が明代にさかのぼるものは,ほとんど皆無というに等しい。蘇州をはじめとする江南地方の庭園のなかには,創建年代が宋代ないし元代になるものがすくなくないが,ただそれらは,創建以後,しばしば荒廢がくり返され,所有者がかわり,増改築がおこなわれるなどの經過をたどっているため,現在の遺構の情況となると,清末―民國時代の再建によっているものがおおいことに注意しなければならない。もちろん,たとえば上海豫園の苑池の前の築山は,明末,萬暦年間ころの重修のかたちを傳えているように,部分的には明代の經營を傳える遺構はある。また,無錫寄暢園は,清代中期再建當時の情況を傳える遺構で,とくに黄石を用いた石壁と鋪地の八音澗が代表的であるが,その造園の風格はまた一部に古樸の氣風を表わしており,錫惠山を遠借する借景の基本構成は,前代の選地立基を蹈襲しているとみるべきであろう。要するに,日本より以上に,實年代の降る遺構ばかりが壓倒的におおいことは疑いもない事實なのであるが,ただこれらの晩期造營の庭園遺構にも,かなり傳統的な,あるいは保守的な造園手法が蹈襲されている例があるので,そうした構成要素にたいする客觀的な分析がまず第一に必要とされることになる。そのためには,明末の造園論『園冶』,あるいは『長物志』,すこしさかのぼって王世貞『游金陵諸園記』,さらには北宋の李格非『洛陽名園記』などの文獻史料の記載と,こうした實物遺構の要素との比較をとおした遡及的な研究方法が求められることになるであろう。すでに言及したように,かつて岡大路や田治六郎はこの方面に先鞭をつけた點は評價されるが,ただ實在の遺構を含めた綜合的な視野を開くにはいたっておらず,この點は今後の課題としてのこされているといっていい。  さて,明清時代の庭園遺構をあつかった研究としては,まず第一に,冒頭にあげた劉敦楨・童寯・陳從周の著作が代表的なものである。これにつけ加えるべきものとしては,楊鴻勛の「中國古典園林藝術結構原理」,「江南古典園林藝術概論」0099の2篇の論文をあげたい。楊鴻勛氏は考古研究所の所屬で,一般にはもっぱら先史時代住居・先秦時代宗廟・陵寢,唐代宮殿・佛寺など,考古發掘遺址の建築の復元研究で知られており,つい最近,主要論文を集めた『建築考古學論文集』(文物出版社,1987)が出版されたが,もともとは庭園を專門とする研究者で,庭園設計を手がけた經驗をももつ。楊氏の兩篇論文および近刊『江南園林論』(上海人民衞生出版社,1994)0102は,江南庭園の空間構成の原理について,景物の對比,借景,その他の具體的項目にわたってするどい分析を加えたものであって,造園史研究というより,中國庭園の特質を理解するうえできっと啓發されるところがあるとおもわれる。劉敍傑「園林巧異」0622も簡潔ながら江南庭園の特徴をよく捉えている。  個々の遺構の沿革については,既述のように蘇州の14庭園は劉敦楨・前掲書にほとんど盡くされ,童寯・前掲書,陳從周『蘇州園林』,同『園林談叢』とをあわせて參照すれば大概はこと缺かないだろう。ほかに,たとえば留園については郭黛姮・張錦秋「蘇州留園的建築空間」0345,拙政園は楊宋榮「拙政園沿革與拙政園圖册」0372のような個別の論考もある。揚州は,前掲の陳從周『揚州園林』がまとまっているほか,朱江『揚州園林品賞録』0382は各種の文獻や銘文を收録しているので,沿革を知るうえで有用である。何園,寄嘯山莊,小盤谷などの個別遺構については,ほかに陳從周・前掲論集にも論考があり,朱江「揚州園林淺談」0381,錢辰方「揚州何園録」0384などもある。南京瞻園は劉敍傑「南京瞻園考」0403,上海豫園は陳從周・前掲論集,王啓初「陶澍與上海豫園」0416がある。このほかに,山東濰坊十笏園については周維權・馮鍾平の同題の論考0454,廣東の庭園については夏昌世・莫伯治「漫談嶺南庭園」0463,陸元鼎「粤東庭園」0468,鄧其生「東莞可園」0465などがある。  こうした個別の論考のほか,さしあたって概要を知りたいというばあいには,『古建築游覽指南』(1-3,中國建築工業出版社,1981),『中國名勝詞典』(上海辭書出版社,1981),『中國歴史文化名城詞典』(上海辭書出版社,1985)などが有用であろうし,また『江蘇園林名勝』,『無錫園林導游』,『上海豫園』などのような觀光案内書の類もばあいによっては役に立つことがある。  庭園の具體的な景物,造園技術・工法,建築の類型などを論じたものとしては,前掲の『中國古代建築技術史』,曹汛および楊鴻勛の論考のほか,汪星伯「假山」0628,孟兆楨「假山淺識」0645,朱家溍「漫談疊石」0635,王鐸「徑欲曲,橋欲危,亭欲樸」0597,陳從周「建築中的“借景”問題」0613,郭湖生「園林的亭子」0682,その他がある。  さいごに造園論著作および造園家の事蹟についてふれておこう。造園論の分野では,冒頭にのべたように岡大路『支那庭園論』が先驅的業績である。『園冶』にかんする研究はすでに陳植氏の注釋書を中心として紹介したので,ここではくり返さないが,先にふれなかったものとして,曹汛「計成研究―爲紀念計成誕生四百周年而作」0514,および張家驥「讀《園冶》」0491,顧其華「讀了《 讀〈園冶》之後」0485,施奠東等「關于《園冶》的初歩分析與批判」0488,喩維國「重讀《園冶》隨筆」0505,その他がある。文震亨『長物志』についても,陳植氏校釋に關連してすでにふれたが,同氏「明末文震亨氏造園學説」0500(同書再録)をもあわせて參照の必要がある。清代の李漁『間情偶寄』の庭園論は,解放前に排印本が出ており,最近再版されたが(『一家言居室器玩部』0535),日本では中田勇次郎の譯0503があり,陳植「清初李笠翁氏之造園學説」0498もあわせて參照の必要がある。  計成・文震亨・李漁だけでなく,歴代の造園家の事蹟については,すでに知られるように解放前に關連資料を收録した朱啓鈐輯本・梁啓雄校補「哲匠録」0511第2・疊山がいまなお有用であろう。簡説としては陳植「中國造園家考」0522がある。明末清初の造園家で,築山の手法を古式の本格に復そうとした名匠・張南垣およびその子の張然の事蹟については,謝國楨「張南垣父子事輯」0510があり,近年は曹汛が「張南垣生卒年考」0513,「清代造園疊山藝術家張然和北京的 “山水張”」0515などで文獻史料を用いた着實な論考を發表している。清代中期の造園家で,アーチ構造の原理を巧みに石山・石洞に用いた戈裕良は,蘇州環秀山莊にその遺構が現存しており,劉敦楨・前掲書に論考がある。 5. むすび  以上,急ぎ足で中國造園史研究の現状と課題について大要をのべてみた。わたし自身,中國造園史の研究に手を染めるようになってからまだ日も淺く,とうてい大それた意見をのべる資格などないのだが,日本の造園學プロパーから,オリジナルな研究をめざす同好有爲の研究者が出現されんことを日ごろから切望しているので,わが同朋へ奮起をうながす意味であえて筆をとってみた。とくに,本文中にものべたように,中國造園史の古代・中世部分にはまだあまりにも空白がおおきい。中國の庭園史學界の主要な關心は目下のところ,もっぱら明・清時代の遺構の解釋に向けられているようである。一方,日本には,かつて中國から影響を受けたに相違ない奈良・平安時代の庭園の實例が,發掘調査がすすむにつれて,かなり明らかになりつつあり,また,『作庭記』という珍重すべき造庭祕傳書も傳わっている。中國庭園の,すでに失われた造園の傳統を理解するうえでは,周邊領域とはいえ,こうした,中國ではいわば初期に屬する時期の具體的史料を擁する日本のほうが,かえって文獻史料に對する柔軟な理解が得られるばあいもあるし,むしろそこから新たな視野が開かれる可能性もあるのではないかと,わたしは密かに考えている。 (原載,日本造園學會誌『造園雜誌』51-3,1985。原題「中國造園史研究の現状と諸問題」を細部修正し,收録論文に本目録の編號を付し,利用の便をはかった。)